Profile

1969.7.8 東京都下。油絵科卒の父と、保育士の母の間に生まれる。

幼少時、父にデッサンのいろはを無理矢理教え込まれ、すっかりお絵かき嫌いに。母に子供劇場などに連れて行かれるうち、いつのまにか舞台好きの感動屋に。しかしお客さんが来ると、接待は妹に任せて、自分は本を片手にそそくさと奥へ引っ込む、社交性の欠落した子でありました。


高校卒業後、木山事務所という新劇の俳優養成所に入所。4年半在団ののち、1995年、母の郷里である沖縄に移住。沖縄の現代劇の劇団に参加。一年で退団。

98年、「演劇企画魚の目」というグループを立ち上げて(代表・演出)オリジナル作品の上演をしますが、役者不足のため、好評だった旗揚げ作品の、再演が頓挫。今でこそ、沖縄は幅広い年代のすてきな演劇関係者で溢れかえっていますが、20年前はたった4名のキャストを確保するのもたいへんでした。

無念さのあまり一晩泣き明かし、「とにかく演劇経験者を増やすしかない!」と、“劇団に入る勇気はないが芝居はやってみたい”ヒト向けのワークショップを開始。
当時、沖縄の現状に見合った台本が、なかなかなかったので…脚本を書く人もいまみたいにたくさんいなかったので…(+自分で戯曲を書くという発想がまったくなかったので)しぜん、即興をベースにした作品づくりをするようになりました


とはいえ、そもそも自分自身が“ワークショップ”なんて受けたこともなかったので、「演じるってどういうことだろう」「ドラマってどうやって成り立つんだろう」ということを、0から、自分たちのアンテナだけを頼りに模索する、とても貴重な旅をした数年でした。

そうこうしているうちにいろんなところからワークショップをやる機会をいただき、そのうち“県立高校の演劇の授業”とかもやることになったりして、「しかたなくで授業を選択したけど『エンゲキなんかやりたくね〜』ってヒトのための演劇って一体何をすればいいんだ!?」と四苦八苦しました。

一方、「プロを目指す」ためのエンゲキだけじゃなくて、生活するヒトのためのエンゲキ、っていうものも、実は人々にとても必要とされてるんだ、ということに気付きはじめたりして、ああもっと勉強したい、と思っていた矢先、インプロ(即興演劇)の存在を知りました。


即興を元に作品を作っていた頃、設定と役柄だけを決めて、まずはフリーでいろいろ喋ってもらうのですが、演じている本人が、ほとんど無意識に吐き出したなにげない言葉が、何か深いところで人々の思いや記憶を突いていたりすることがあり、人間の潜在意識ってなんて面白いんだろう、と思ったものです。

そして、「即興って面白いけど、即興をそのまま舞台で上演したりできるのかな?」「まさかねー、相当極めないと無理だよね」なんてみんなで言い合っていたのに、よその国ではとうの昔に確立されていたのだと知った時は、「ああ自分の限界って結局自分が決めるんだなあ」とつくづく思い知らされたものです…


2004年、一時実家に戻り、東京でインプロ修行を始めます。インプロジャパンの体験クラスからスタートして、インプロワークスでは「ワークショップリーダー勉強会」に加えていただき、インプロ初心者でありながら、とにかく沖縄に早くインプロを伝えたくて、東京にいながらにして「インプロオキナワ」をたちあげ、数ヶ月に一度のペースで帰沖し、インプロのワークショップをスタートしました。


2010年に沖縄に再移住するまでの数年間、即興演劇だんすだんすだんす即興カニクラブ即興実験学校などにもお世話になり、インプロワークスでは、株式会社アメニモとのプロジェクトで、研修講師やコーチといった方々に混じってインプロを使った企業研修にも参加させていただきました。2006年にはインプロワークス主催、シアトルのインプロカンパニーUNEXPECTED PRODUCTIONSの日本人向けワークショップツアーにも参加。ほか、シアタープランニングネットワーク主催、イギリスより講師を招いてのDIE(ドラマ・イン・エデュケーション)講座も毎年受講させていただき、イギリスの演劇教育の真髄にも触れることができました。東京在住ってなんだかんだいってありがたい。…いや、実家住まいがありがたいのか…と痛感した数年間でした。


また、この期間、地元の学童保育の臨時指導員として、子どもたちとがっつり付き合う機会もいただきました。

演劇では高校生以上としか付き合ってこなかったし、自分で産んでないので、コドモとは、まったくもって未知の生物。「比較的時間の自由がきく仕事」ということで始めたのですが、最初はどう接していいものやら、不安でいっぱいでした。しかし毎日付き合ううちにほどなく「自分の子どもの頃の記憶と感情」が蘇って来ました。ああ、こんな風に平気を装ってても、実はものすごく恥ずかしかったよなあ、傷ついたよなあ…こういうちょっとしたことが、すごくわくわくしたよなあ…わかるわかる、そうだった…

この時期、各インプロ団体のリーダーのみなさんと並んで、子どもたちが私の、インプロの師匠となります。

さらにはオトナとコドモの関わり合い方、子育ての理想と現実のギャップについてもずいぶん考えさせられた、貴重な体験でした。


2010年、念願叶って沖縄に再移住。沖縄市の「地域おこし協力隊」に採用され、初めてのコザ在住。プライベートではモデルクラブディネアンドインディーで演技レッスンを担当するなど講師業をスタート。2年半の任期の間、演劇×中心市街地活性化、ということで、当時沖縄市で開催されていた国際児童・青少年演劇フェスティバルおきなわ(当時愛称キジムナーフェスタ)にも関わり、即興実験学校の高尾隆氏らとともに、「街なか×市民参加×演劇」をテーマに、沖縄初のシアタースポーツを開催。また、地域の子どもたちと、“自らの力で街を遊び場にする”わくわくランド遊び塾などもやっておりました。


2013年3月、任期を終えてからは、視界の8割が青と緑、という環境に憧れ南城市に移住。インプロオキナワとしての活動のほか今井純氏を招いての沖縄インプロ合宿の開催、また、各団体でのインプロやコミュニケーション講座、また、地元南城市シュガーホールのジュニアコーラスや、劇団・事務所などの講師を務めながら現在に至ります。

インプロのこと

もともと「楽しく演劇を教える」ためのツール、また、新しいパフォーマンスの手段として出会ったインプロでしたが、始めてみると、自分自身にとっての収穫の方が多いことに気づきました。


例えば、終電を逃したときなど…(実家が東京といっても都心からも最寄りの駅からもたいへん離れているため、うっかり電車を逃したら帰宅するのはほぼ不可能なのです)…以前だったら「あーもうだめだー、もう帰れないー」と絶望し、ひいては「帰ろうとしてたのを〇〇さんが引き止めるから…」と恨めしく思ったりしていたのが、即座に「まてよ、このルートだったら、かなり家に近づけるのでは?」「完全帰宅は無理でも、途中の妹のうちくらいまではたどり着けるかもしれない?」「ま、だめだったらだめで、なんとかなるかもしれない。」とノンストレスで別の道を探せるようになった。

とか。

学童の子どもたちに「ねえ〜〇〇したいよ〜」「いいでしょ〜お願い〜」と日々せがまれるなか(そもそも子どもたちの自由がかなり制限される施設ではあったので…)「うーんそうだねえ〜…」と応じつつ、いつのまにか頭の中では“どうやったらそのリクエストを実現できるか?”ではなく、“できない理由、断る理由”から探している、そんな自分にはっと気づく。

とか。

なんども繰り返し稽古したお芝居ならまず緊張しないのに、素の自分で人前に立つのは超苦手で、いちど親戚のお祝いで司会を任された時に口がこわばり1分間フリーズし、親戚・来賓一同から気の毒そうな視線をあび「もう2度と、絶対、司会なんかやるもんか!」と思っていたのが、気がついたらうそのようにへっちゃらぴーになっていた。

とか。

相手の、まったく思いもかけない、自分の予想を上回る、どちらかといえば嬉しくない言動なんかも、以前よりはぜんぜん「なるほどねーそうきたか」「ああそうか〜そういうキモチなのね」と…どちらかといえば、好奇心とシンパシーを持って…受け止められるようになった。

とか。

なにより、自分が演劇を始めた二十代の頃は、まぁ時代が「褒めて伸ばす」よりは「叩いて踏みつけて、それでも伸びてきたもののみ認めてやる」といったかんじだった。ということもあり、せっかくやりたくて始めた演劇だったのに、いつも窮屈さ、不自由さを感じていました。「ダメダメ!ぜんぜんダメ」「何もわかってない!」と言われることがこわくて、正解として許可されたもの、または許可が降りそうなもの以外は、試してみることができなかった。尊敬する蜷川幸雄さんの舞台に幸運にも関わらせてもらって、お芝居の面白さがわかってからも、その枷はなかなか外れることはありませんでした。

それが、インプロを始めてからは、いつのまにか、自分の発想を認め、トライ&エラーを許可し、笑って受け止め、一歩引いて自分の表現を観察することができるようになった、というのは、最近台本のお芝居に復帰してみて、「自由さ」として感じたことです。(ま、演劇の世界も、とことんダメ出しからほめる時代へ、変わって来てるのかもしれませんけどね。)

かといって、なんでもかんでも手放しで、あらすてきねえ、いいねえ最高だねえと言われてりゃあにんげん幸せか、といえば、そうでもない。自分の思いやがんばりは認めて欲しいけど、一方ではもっと成長したいし、よりよいものを追求したい。今のまんまでいいとも思っていない。

それに、傷つけることを極端に避ける傾向のある現代だって、生きていればやっぱりあるのです。自分の表現や言動だけでなく、時には存在そのものすらも、手放しで貶したり、否定したりといったようなネガティブな力に出会うことが。たとえ相手に悪意がなかったとしても、いつ思わぬときに石つぶてにあたるかはわかりません。

ですが、そんなこんなに振り回されたり、一喜一憂したりすることなく、よかれあしかれ在るがままに、どんなときでも自分の存在をよしとして、自由自在に、いる。そして好奇心とエネルギーをもって、いつでも瞬時に動き始めたり、誰かに関わっていくことができる。そんな自分に早くなりたいなあ…と、思う、まだまだ“しゅぎょう”道半ばのわたくしでございます。

いったいなんの話か、というところにいつの間にか来てしまいましたが、即興のパフォーマンスも、人生も、とどのつまりは同じことなのではないかと思うわけですね。いかにしなやかに、したたかに、ごきげんに、立っていられるか。

そして願わくば、そんなふうに、恐れなく自分の足で立つことのできる人間同士が、遠慮なくぶつかり合えたり、じゃれあったりしながらごきげんな舞台をつくっていける。または、ごきげんな世界をつくっていける。そんなふうなことを目指して、ここにいます。


経歴

渡辺奈穂(わたなべ なほ)  

1969年、東京都青梅市に生まれる。私立自由の森学園高等学校卒業。

1989年、東京/劇団木山事務所入所。養成期間3年/準劇団員1年半を経て退団後、フリーとして蜷川幸雄演出「近松心中物語」等の舞台に出演。95年に母方の郷里である沖縄に移住、演劇空間「大地」に入団。退団後、98年に演劇企画魚の目を結成、代表/演出。現代沖縄口語にこだわりつつ、即興を基盤にした作品づくりと、初心者や学生向けの演劇ワークショップを行う。

04年より一時帰京、インプロ(即興演劇)を学ぶ。インプロワークス、即興集団だんすだんすだんす、インプロジャパン等、複数のインプロカンパニーでパフォーマー/トレーナーとしての研鑽を積む一方、株式会社アメニモにてインプロを取り入れた企業研修の講師として関わる。同時期、シアタープランニングネットワーク主催、ケネステイラー氏/ヘレン・ニコルソン氏らによるドラマ教育(DIE)の講座を受講。

04~10年、東京都青梅市の学童保育に臨時指導員/嘱託指導員として勤務。

05年より「インプロオキナワ」を主宰、東京との間を行き来をしながら、自主企画ワークショップを実施、また、ライブを上演する。県内の大学/企業等でコミュニケーションワークショップや実演の指導をおこなう。

10年7月、沖縄へ再移住。10年10月~13年3月「地域おこし協力隊」隊員(地域コーディネーター)として沖縄市に赴任。一番街商店街内の活動やキジムナーフェスタ等のイベントに関わる。

また同年、国際シアタースポーツ連盟より「シアタースポーツ」(即興で行われる観客参加型のショーのフォーマット)のライセンスを取得、11年と15年に上演。

コーディネーター任期終了後は、演劇/演技/インプロ/コミュニケーション講座などの講師として活動。また今井純氏(東京コメディストア)など、日本を代表するインプロ指導者を県外より招いてワークショップを企画、実施している。


【主な演劇/インプロ/コミュニケーション指導】

1999〜2001年 沖縄県高校演劇連盟 大会審査員/演劇講師(演劇指導)

2001〜2004年 沖縄県立真和志高等学校 非常勤講師(演劇指導)

2002〜2004年 NPO法人フリースクール珊瑚舎スコーレ講師(演劇教育)

2006〜2009年 千葉県白井市立池ノ上小学校 演劇講師(演劇教育)

2010~現在   モデル事務所 ディネアンドインディー 演技講師(演技指導)

2013~2015年   劇団ひまわり沖縄エクステンションスタジオ講師(演技指導)

2014~2017   (公財)沖縄県労福協/ インプロセミナー講師(就労支援)

2014年~現在  南城市シュガーホール Jr.コーラス講師(ことばとからだのワークショップ)

2015~2017   NPO法人 フリースクール珊瑚舍スコーレ講師(演劇教育)

2014年~   沖縄市こども議会 こども議員事前研修/サポーター研修講師(人材育成/表現)


ほか1日〜短期講座:

琉球大学、沖縄大学、沖縄国際大学、なは女性センター、那覇市NPO支援センター、うるま市役所、沖縄市社会福祉協議会、沖縄市男女共同参画センター、NPO法人キャリエイト、那覇家庭裁判所、国立青少年教育振興機構、県内保育園・学童クラブ・ホテルなどの職員研修 など